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2007年10月

2007年10月 7日 (日)

雉も鳴かずばハーマイオニー

本ブログの注釈です。

※ロックの引用を追記しました・・・岩波さんの回し者か私は(笑

■古野まほろ『天帝のはしたなき果実』『天帝のつかわせる御矢』(講談社ノベルス、いずれも2007)

ちなみに、第1作のエピグラフは『虚無への供物』の奈々(奈々村久生)のセリフです。これをやられたら、とりあえず買わなくちゃいかんのです。ええヒトとして(笑

ちなみに、周到に二回も「読者への挑戦状」が挟まる、という親切なつくりです。それにはそれなりの理由があるのですが、詳しくはネタバレになるから秘密です(笑

ちなみに、三部作だそうです(『天帝の愛でたまう孤島』)。エピグラフは怪盗紳士ルパン(らしい)。

■キース・ロバーツ『パヴァーヌ』(扶桑社、2000)

昔はサンリオSF文庫で、読むのにとても敷居が高かったものです(笑

■戸坂潤「『常識』の分析」(『日本イデオロギー論』岩波文庫、1977)

ここで「常識」は、ネガティヴな場合は「単に平均的な凡庸」と言い換えられる一方、ポジティヴな場合は「病気と健康のとの総平均などではなくて、各人の健康状態の標準であり又理想」としての「健全」と言い換えられています(84頁)。本文と関係が深い箇所としては、こんな件でしょうか。

常識が一応端緒的には社会人の多数の見識の平均値と関係があるにしても、又更に事実上の現象として一見した限りでは多数者の平均的な凡庸な見識のことにすぎぬにしても、この多数とか平均とかいうものが吟味を必要としたのであって、却って之等のものを引き上げ押し上げデベロップさせる理想像のようなものであった。であるから、常識は結局に於て多数者のものでもなく平均値的なものでもなくて、却って或る種の少数者だけが事実上このノルムに接近(?)出来るのであり、又却ってこの平均値を抜け出る処にこそ恰も卓越した常識が横たわると考えられる、という事実が説明され得るのである」(87頁)

・・・やはり、西沢さんにこの境地を求めるのはちと酷かなあ、と思わないでもありません(笑。

■リベラリズム/コミュニタリアニズム
ちょうどこのころ、何かの必要があって、仲正昌樹他『現代思想入門』(PHP、2007)を読んでいたので、そこで紹介されていた井上達夫さんの議論、つまり「正義と善を混同してはいけない」という議論をなんとなく思い起こしたりしていたのです(『共生の作法』創文社、1986、193頁以下)。
・・・わかりやすいかなあ、ということで、北田暁大さんの「現代リベラリズムとは何か」の図式を示しておきます(165頁)。

               個人志向

    (功利主義?)    ¦    リベラリズム

善志向 ---------------+------------------ 正義志向

    コミュニタリアン    ¦   (功利主義?)

            共同体(社会)志向

あんまりわかりやすくないですか。すいません(笑

■ロック的自然状態

社会契約論の前提となる「自然状態」にはいろいろあるわけですが、ロックの自然状態は、例えば「新大陸」の存在を前提にするようなタイプなのですね。でないと、そこから「所有」が発生しないので。

自然は、人間の労働の程度と生活の便宜とによって巧みに所有の限度を定めた。何人の労働といえども、すべての物を征服し占有することはできない。またそれを享受するといってもその一小部分以上を浪費することはできない。それであるから、何人でも、他人の権利を侵したり、あるいはその隣人を犠牲にして自己に所有権を獲得するというようなことは、あり得なかったのである。ある者が、自分のものを獲得した後でも、なお、その獲得以前と同様に、隣人には、多くの良い、また十分な財産の余地があったに相違ないからである」(『市民政府論』岩波文庫、1968、40頁)

■無知のヴェール

これも有名な、ロールズが「自然状態」を規定するときに用いる前提条件です。まあラフに言えば、人間は「差異」の存在を知ると必ずそれを意識してしまうので、他者との差異には気付くことが出来ない、という前提を立てないと「自然状態」を上手く理論化できないわけですな。

・・・そんな都合のいい話があるか、という反論もよくあります(笑

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